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Asia meets Asia
の快感 Asia meets Asia'98当日パンフレットより

音楽は国境を超えるという幻想を信じている人は、まだ少なからずいる。しかし、演劇が国境を超えるなんてことは、はなから誰も信じていないのではないか。
 芝居には、台本があり台詞がある。その台本の書かれた言語、話される台詞の言葉、それが理解できなければその芝居は分からない。言語という国境を超えて演劇が何かを伝えることなどできない。多くの人がそう信じているのだろう。
 ぼくがそんな常識も幻想なのではないかと思いはじめたのは、日本では小劇場がブームとなっていた80年代はじめのことだった。
 『血と花弁』で魅せられたケニアを代表する作家、ングギ・ワ・ジオンゴが小説を書くのをやめて演劇運動を始めたこという話を聞いた。多くの人に伝えるため、英語で書くのをやめ、共通語であるスワヒリ語を使うわけでもなく、彼が上演に選んだ言葉は、それらに比べればマイナーな言語である部族語だった、という。
 部族や言語を国境を超えたコミュニケーションとして演劇を捉え直してみよう。そしてまた、そのための方法論があるに違いない。そのときそんなヒントをもらった気がした。 それからずいぶん時がたった昨年、「アジア・ミーツ・アジア」のプレイヴェントで、韓国と香港の劇団の芝居と幾晩かを過ごした。悔しいことに、英語やフランス語の芝居を見る以上に、台詞を理解することはできない。したがってストーリーや主題を分かったともいいづらい。
 けれども、ふだん見る演劇では味わったことのない充実感があった。快感があった。
 同じ空間で俳優と観客が向き合い、全身を使って表現をする。そのとき、表現された意味内容を超えて伝わるものがある。その充実感だった。
 それでも表現の意味は十分には伝わらない。理解できない。その理解できないことが快感だったのだ。理解し合えないながら同じ熱気を呼吸している快感だ。決して理解しつくすことができない人たちと共存すること。今人類が抱えている難しそうな問題が、意外と簡単なことかもしれない、と思えた瞬間だった。
 国境を超える演劇をどうしたら実現できるか、まだまだ分からないことだらけだ。「アジア・ミーツ・アジア」を通じて、見る人やる人を含めて、その分からない世界に踏み出していきたい。

竹田賢一(実行委員)

 

 

 

 

 

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