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Vol. 1Asia meets Asia'97  「アジアが<アジア>と出会うために」西堂行人(演劇評論家)
Vol.2 Asia meets Asia'98  「Yさんへの手紙」 堀浩哉(美術家)『LR』11号
Vol.3 Asia Meets Asia 2001 中村和夫
Vol.3 Asia Meets Asia 2001 シンポジウム 11.21(水)
Vol.4 Asia meets Asia 3003  シンポジウム 10.29

 

Vol.4 Asia meets Asia 3003  シンポジウム
  October29. 18:00−21:00
 
大橋:
 今回のフェスティバルに参加していただいてる方に簡単な自己紹介をしていただいて、その後に質疑応答という形に今日はしていきたいと思います。
 今日シンポジウムは2〜3時間位を予定しておりますが、聞きたいことが届かなくて、もどかしい場合もありますので、今はできるだけフリーでディスカッションして、それからどういくかは分かりませんが、もし質問が出なければ沈黙を共有しながら場所をお互いに共有できれば、と思います。
 それで、劇団の紹介をしていただきたいのですが、ひとつ質問をさせてください。「自分の劇団を何かにたとえると何ですか?」
 何かにたとえて劇団の作品、あるいは劇団のカラーでもいいんですけど、それを答えていただいて、説明していただきたい。
・ ・・・・・難しいでしょうか?
自己紹介はチラシの順番で。エー、イランからはるばるお越しいただきました、劇団Baziのアチーラ・ペシアニさんです。  
 
ペシアニ:
 私はBaziという劇団の主催者なんですけど、この劇団ができてもうすぐ14年になります。これまで42のプロダクションを行ってきました。私はこの劇団のたった一人の演出家ではなくて、これまでほかに3人の演出家もいました。でも、その演出家たちは今別のグループを持っていますので、現時点では私だけが演出家です。
 (メンバーの一人を紹介して)彼は演劇の構成とかを教えてくれるグループのメンバーで、働き始めてから12年になります。
 私の妻も娘も息子もメンバーです。私の家族もメンバーですけど、家族以外のメンバーもいます。
私たちのパフォーマンスは11月の1日と3日にやります。これは、ことば・会話を使わない公演です。「ミュート」というタイトルです。唖って言う意味です。
 テヘランで次回行われるフェスティバルでも上演されます、今やってる公演の後半部分がありまして、それをもってまたこのAsia Meets Asiaに来たいなと思ってます。
 この「ミュート」はフランスやドイツ・アメリカ・イギリスで公演してきました。で、今回日本でやります。
 私たちは生きたカモを公演で使います。今までいろんなカモを使って、あの、ドイツ人のカモとかアメリカ人のカモとか。で、今度は日本人のカモを使って公演を行います。
 Baziという言葉の意味は、インドでも同じ意味だと思うんですけど「遊ぶ」っていう意味があるんですけど、Baziをたとえると猫が遊んでいるようなイメージです。
 
  
大橋:
ありがとうございます。 次はオランダからきましたNAAS Theatre Companyのアルマシュタさんです。

アルマシュタ:
 まず、NAASは人々という意味です。特に普通の人々を指します。
わたしたちは今オランダに住んでるグループなんですけれども、政治的状況でイラクから亡命してます。サダム・フセインと問題があって亡命しました。 劇の中で司令官を演じるのでひげを生やしました。公演が終わったらそります。
私たちメンバーはそれぞれ経験が違います。ハジは長い間演劇に関わってきました。私は以前、大学の演劇学科で教えていました。
今回の作品は初めて上演するものです。何でかというとロクさんと大橋さんと話をしたとき、今のイラクを象徴する作品にしてほしいと頼まれたので、今回そのために作った作品です。 だから私が今回書いた作品は、自分自身の経験や家族の経験、そういったものを描きました。 私はあまり技術のことについては考えませんでした。今回は私の頭の中にあるもの、心を演劇にしようと思いました。
   
NAAS女優: 
今回プロとして自分の言語で公演するのは初めてです。なぜかというと、一度だけ大学で演劇を勉強したんですが、その頃は女優たちに対してすごく偏見を持ってて女優
は売春婦と同じだという見方をしてたんですね。だから、母も女優だったんですけど、女優を辞めてしまいました。
なぜなら、軍隊の幹部がいつでも「ちょっとおいで」っていってその女の人を屈辱できるような状態にあったからです。それで私の母も、おばも、みんな国を出ました。安全のために女優をやめるという選択があった。
だからわたしがNAASで公演するのも初めてなんです。このメンバーと一緒に公演できるのをうれしく思います。
土曜日と日曜日に私たちの公演を楽しんでくれることを望んでいます。

大橋:
  次です。バングラデシュからCATのカマルディン・ニールさん。

ニール:
 まず最初に、ロクさんと大橋さんに感謝したいと思います。なぜなら、ロクさんと大橋さん、大変しつこかったからです。一年ぐらい前から来い来い来いと。最初は忙しくてあまり答えてられなかったんですけど、あまりにしつこかったので、おこたえしました。
 私の劇団のメンバーは、ここにいることをとても幸せに思います。
 これまでも成城大学から招待が来たりしたんですけど、あまりにも仕事が忙しすぎてくる時間が見つけられませんでした。
私たちの劇団はCentre for Asian Theatre アジアの演劇のためのセンターという名前なんですけど、キャット(CAT)と呼んでいます。猫は9回死んでも生き返る、と信じられているので、この名前にしました。
私は94年にこの集団を始めました。それまでは大学の教授をしていました。16年間演劇史や演出を教えてました。でも突然お父さんが夢に出まして、父は国ではとても有名な俳優だったのですが、母も女優で、兄弟もみんな俳優なんですけど、夢の中でお父さんが「何であなたは時間を無駄にしているんだ」といったので、それで考え始めて、94年に仕事をやめました。大学には引きき止められて、7年間も辞めさせてくれなかったんですが。
94年にCATを始めて、株式会社みたいな理事会とかがあって、バングラデシュで最初のプロの劇団です。
140の劇団がバングラデシュにはあるんですが、ほとんどがパートタイムでやってる劇団です。でも、演劇をパートタイムでやるのは難しいと思っているので、今、私たちの集団では45人がフルタイムでやっています。45人のうち25人が俳優です。
私たちは演劇を実践するのと研究との両方をやっています。私の意見ですが、世界各国で学者たちは自分の小さな世界の中で物事を調べてるんですけど、それは間違ってるし演劇にとって良くないことだと思います。本当に演劇を理解して実践してない人にちゃんとした本は書けないと思っています。
私は、日本の演劇について日本人によって英語で書かれたものを探していくつもの本屋をまわったんですけれど、でも全然見つかりませんでした。それはとても残念なことです。自分たちの演劇のことを書いてもらうことをいつでも西洋の学者たちに頼っているのは残念だと思います。彼らは国に来て、そこの演劇のことを知らないのに書いて帰ってゆくので。
だから私は演劇を作ることと研究することをいっしょにやるべきだと思います。
私たちはバングラデシュやインドだけじゃなく、ヨーロッパなどでも公演をしていますが、東アジアは始めてです。だから大橋さんとロクさんに感謝したいと思います。
ここに来て、私は疎外感を覚えたことはありません。とってもファンタスティックな人々が暮らしている国だな、と思います。
人々の感じからは、ダッカと東京はぜんぜん変わらないと思います。ただ、私たちはどうやって沈黙を守るべきか、と思いました。電車とかにたくさんの人がいるのにとても静かなのだけはダッカと東京の違いだと思います。
今回の私たちの公演は、伝統的なものに現代劇の要素を入れてやっています。研究を重ね、実験的なことをたくさんして。でも、今回は伝統的なものなんですけど、西洋の作品も公演しています。イプセンとかチェーホフとか。
私たちの集団は多面的な集団です。双方向の関係を信じています。一方通行のものは信じてません。
この45人のメンバーは、政府の高官よりも高い給料をもらっています。これはすべて自分たちの公演から稼いだものです。
私たちは出版物や、CDとかカセットも販売してまして、後、ほかの国の海外交流窓口、海外と交流するところからたくさんサポートを受けています。900万円ぐらいでやっています。

大橋:
ニールさんが、キャット、9回生き返る、といったのは、これは本当です。僕がニールさんに「なぜそんなにおなかが出てるの?」と聞いたら、彼は25メートルのがけから車で落っこちて死にかけた。それでトレーニングができなくなって

二―ル:
目を開けたときは病院で寝てました。神様は私を死なせたくないんだな、と思いました。
 
大橋:
次に、コラボレーションのメンバー。僕らは、Asia Meets Asia を97年からはじめてるんですけれども、そのとき、最初からいっしょに活動してるトムさん、そして今回いっしょにコラボレーションをするワンさんのご紹介なんですけれど……ちょっと、日本で参加する流山児さんが、時間があまり……
えー、日本の2日目に参加していただく、劇団流山児事務所の流山児祥さんです。
 
流山児:
 えーっとですね、僕自身が忙しいのと、今回の「狂人日記」の稽古のために帰るのと、その次の作品の「ハイライフ」という作品の顔合わせがあるのですけど、「ハイライフ」は僕の200本目の演出作品で、僕がプロデュースした作品も足すと、多分、300本を超えるでしょう。だから、多分日本で一番作品を生み出してる劇団であることは確かです。
 1968年、僕は演劇を始めました。学生時代。僕は青山学院という大学の学生だったんですけど、日本には、当時アングラ演劇と呼ばれる小劇場ブームが起こってた時代。その前に僕は、当然いろいろと演劇や新劇を勉強していました。
 その当時に紅テントと呼ばれる、唐十郎が作ったところなんですけど、そこが僕の出発点です。で、その次が鈴木忠志という、これも世界的に有名な演出家なんだけれども、そこで僕は1年間演劇を勉強しました。だから、僕は2つの劇団の主催者であるから唐十郎と鈴木忠志の時代の、その次の世代を担う演劇人だと。
 で、なぜ300本もやってるかというと、多分貧乏だからです。貧乏だからこそ、僕は、たとえて言えばゴジラだったと思うのです。ゴジラは放射能の子です。原爆が産んだ子なんです。だから、僕たちは、演劇という放射能を浴びたらゴジラになっちゃったと。僕は原爆みたいに演劇をやりたいんです。ありとあらゆるものを壊すような演劇をやりたいと思います。
 でも多分、今度の「狂人日記」は、最も演劇的な、普通のお芝居でしょう、多分。皆さんに比べて。
 えーっと、40年以上前に作られた人形劇です。作家は寺山修司って言う、これはさっき言った唐十郎、鈴木忠志と同時にならぶと称される日本の誇る演劇人の一人です。45年前に作られたテキストなんですけど、これは30分の戯曲です。6人の家族を演じる人形のお話です。で、家族の中に一人きちがいがいる、それを探し出すために6人の家族がばらばらになって壊れてしまうというお話です。
 この作品を持ってこの5年間世界をまわってました。カナダで7ヶ所、韓国で2ヶ所、カイロ、北京、ベルリン、モスクワ、台北、マカオ。で、これは最後の公演に、今のメンバーでは最後になるかと。
 だから違う形に作り変えて、…来年以降も作り変えていこうと。で、あの、30分きらないように、それで悪戦苦闘しています。
 それで、さっきお金のはなし出たんですけど、日本のカンパニーはほとんど貧乏です。でも演劇が好きな連中は腐るほどいます。だから貧しい国は逆に言うととっても豊かなんだと思います。
 だからってうちの劇団は貧乏じゃないですよ。今、国から6千万円のお金をもらっています。だから、その6千万円をどれだけ国のためじゃなくて人のためじゃなくて、ためにならないように使うかを考えています。
 ま、世の中が変わるような演劇をやり続けたいと思います。町が変わる、そのためには6千万円じゃぜんぜん足りない。
 近いうちAsia Meets Asiaも外でやりましょう。

大橋:
 Give me money

流山児:
金はなんとかなるように考えますよ

大橋:
OK. Next time, he produces.

流山児:
 だから、そういうことは、具体的に、近いうちに、金をいっぱいとることを考えればいいことだから。面白いっしょ、これ。
 えーっと、もうちょっとでぼくが失礼しますけれど、それは「ハイライフ」というジャンキーの芝居、カナダの芝居です。銀行強盗をはたらいているジャンキーの芝居です。ま、悪い人ばっかり登場する芝居です。
 ま、次はちょっといい。「狂人日記」は、ま、観て、ください。

大橋:
 ぜひ次は野外でできるように考えていただきたいと思います。

流山児:
 がんばりましょう。

大橋:
 がんばりましょう。
 後、自己紹介をしていただく劇団があるんですけど、1時間ぐらいたってるんで、いったんここでブレイクをとって次の自己紹介を続けたいと思います。 


          
          (休憩後)

大橋:
 あと二つの日本の参加劇団の方に紹介をしていただきたいと思います。ゴキブリコンビナートのDr.エクアドル、日本の活躍中の劇団です。

Dr.エクアドル:
 ゴキブリコンビナート代表のDr.エクアドルです。94年設立で来年で10年ですね。
 大体今回会場となる麻布die pratzeぐらいの規模の会場で公演を行ってて、ここ2回の本公演はdie pratzeで行っています。
 劇団の特色はですね、庶民と呼ばれている、大多数の普通の生活の一コマを切り取ってありのままに描くという特色ですが、あまりそういわれたことはないですね。一応そういうつもりでやってます。ちょっとしたユーモアがあって。
 たとえばですね、今いったことと矛盾するのかもしれないですけれど、社会的位置づけとしては、たとえば、女性自身とかスポーツ新聞みたいな、三文ゴシップ記事の囲い記事、たとえば「鬼母、わが子を何とかしちゃった」とか、興味本位記事。ま、それを読むような気持ちで楽しむ、という感じなんで。例えていえばそういうゴシップ紙の囲い記事、そういうタイプの劇団です。
 ゴキブリコンビナートというキャラクター、日本が作ってるスパイダーマンがありまして、それの敵にゴキブリコンビナートというものがいて、で、体がゴキブリで背中にコンビナートが生えてるんですよ。
 ゴキブリコンビナートという語感と、その怪人の造型を見たときの落差、それが自分のやろうとしてることに通じる気がしたっていう、それが劇団名の由来です。
つまり、コンビナート・オブ・コックローチ、だと思ったら、ア・コックローチ・ オブコンビナート、あ、コンビナートは英語じゃないですね。

通訳:
コンビナートってなんでしたっけ?ベルトコンベアーが、

エクアドル:
違います。石油精製工場と石油化学工場とか、そういう関連工場がくっついてできる・・・(以下、コンビナートの話)・・・あ、ですから、庶民の生活感情がどんなものかという興味がございましたら、非常に一面的ではございますが、ひとつとっかかりになるのではないかと。

大橋:
ぜひ日本の生活をご覧ください。これが日本だと思われても困りますが。
 
ロク:
日本のような工業化した国ではタブロイド氏みたいなものがはやって、3面記事とかスポーツ紙とか女性自身みたいな雑誌がはやって、そういうのがすごく生活にあるんですけど、精神的なものを忘れてるじゃないですか。何でそういうものをまねしたいのですか?意図は何ですか?

エクアドル:
僕はただ自分が見るのが好きで、答えたいっていう。

大橋:
次は今度のAsia Meets Asiaのメイン会場の麻布die pratzeの主催者でもあり、今度のフェスティバルに参加していただく劇団OM‐2の真壁さんです。

真壁:
僕個人のことで申しますと、die pratzeという小屋を2つ持ってやってるんですけど、ま、これで Asia Meets Asiaと同時にハイナーミュラーフェスティバルというのもやってまして、自分の公演とかもあって、ものすごく忙しくて、何で集中したらいいのか分かんないんですけど、あのー、とりたてていうことは、ないですけど。
劇団のほうは20年以上続いているんですけど、それでも、うちの場合は10年ぐらい前からある意味で日本の演劇から遠ざかりたいな、と。絶望したというか。ま、そういうことがあって、それぐらいから外国に行きだして、それから基本的には海外公演を中心に。
昔は年に何本かやってたんですけど、最近では東京ではほとんどやらなくなって。4年に一回とか、それぐらいしかやらなくなった。
その前はお客さんも入ってそれなりに人気もあったんですが、今は誰も知らない存在で。
今度やらせてもらう作品も、ヨーロッパとかまわってた作品で、ちょっと前に帰ってきたんですけど、ギリシャとスイスとポーランドと、その前にヨーロッパにいったときもやってるんですけど。間、今回はほかの劇団の大道具とかいっぱい置いてあって、だいぶ狭くなってて、だいぶちっちゃな規模でやろうと思ってて、一部分とかしかやらないんですけど、一応、あの、まあ、海外とかでも評判良かったので、ぜひ観に来てください。

大橋:
最後になりましたけども、Asia Meets Asiaというフェスティバルはアジアにおける現代演劇の交流活動っていう風に始めましたけども、同時に私たちはみんなアーティストが集まって自発的にこういう場を作っているもので、プロデュースが中心になりたくないな、と。そこで出会ったものの中からアジアの作品のようなものを作れる場にしたい、コラボレーションの場にしたい、というのがあって、それで同時にこのAsia Meets Asiaの場を通して世界に発信していけるものを作りたいということでコラボレーションを2000年から続けています。そして今回このプロジェクトを代表して台湾のワンさんから自己紹介していただきたいと思います。

ワン:
私はアバンギャルドの経験は15年間持ちました。
コラボレーションだから、一人一言ずついきましょう。

バージニア:
私たちは7月から準備を始めました。大橋さんが香港に行ってミーティングを持って、どんなフェスティバルにするか話し合いました。
次の人にまわします。

大橋:
7月に行って、基本的なコンセプトは確認して、そのあとにいろいろ、前回はビデオ使ったり、メールとか写真送ったりしてお互いの作業がわかったんですけど、今回はフェスティバルの準備でほとんど時間がなくて。そのミーティング以外一回も話し合わないで今日を迎えました。

ロク:
今回は二人演出家がいるので心も半分ずつなんですけど、今回忙しくて四分の一ぐらいしかないようです。

ワン:
こんどのUnbearable dreamsのリハーサルを見て、おかしいと感じられて。今までそのような経験が2回ありました。
初めてのものは、フランスのパリで。「そんな、おかしい」と強く感じた。あとは、昨日のUnbearable dreamsのリハーサルを見て、同じ「おかしい」という感じがした。
「面白い」ではなくて「おかしい」ストレンジ。

トム:
あんまり演出とか、そういうことはない。ただ、映像とか空間的なこととか意識してください、というだけであまり演出的なものは・・・

質問:
演出の二人っていうのはどなたとどなたですか?

トム:
この中に演出って言うのはあまり存在しません。

ワン:
トムさんがワークショップをひらいて、その中で自然と生まれたものを集めていくような形で。
だから演出ってものはあまり・・・。

バージニア:
今回のパフォーマンスでは、それぞれの俳優が無意識と意識の間を旅したり、人に心から素直に触ったり、そういうことをします。

ロク:
私たちは俳優のための演劇をやろうとしています。演出家ではなく、俳優による公演をやろうとしています。
今回は台湾から3人の目の見えない俳優の方々がいらしてます。彼らは目が見えないけれど、めくらではありません。象徴的な意味で。彼らの心はとっても明るくて、とても強いので、私たちに見えないものをみます。私たちは、彼らから俳優のための演劇というものを学びました。
今回は4人の演出家がいますが、彼らは四分の一ずつしか心を持ってこなかったので、ぜんぜんうまくいきませんでした。
だから、4人の演出は俳優たちの心を制限するのは無理だったので、目の見えない人にも見える人にも効果がなかった。彼らの可能性を限定できなかった。

大橋:
誰かを演出しようという試みは今回誰も持っていない。彼一人が誰かディレクターがいると思って妄想している。

質問:
公演はいつですか?

大橋:
Tomorrow

質問:
先導が4人もいる国は見たことないので、

大橋:
4人、いない。リハーサルに来てみてください。俳優が勝手にベラベラベラ・・・・Too noisy
3日間リハーサルがあったけど、私は一回しか出れませんでした。

ロク:
もう一人、花崎さん。

花崎: 
もうでも、永遠に続きそうですので、これだけ謎を抱えているので、皆さんぜひいらしてください。

ワン:
15年間こういったアバンギャルドをやり続けてきて、この数日間稽古を重ねて見えてきたことは、とっても単純な動きの中ですごく孤独感のようなものを感じた。

ニール:
僕はこのリハーサルを見たことがあるんですけど、演出家って言うのはお互いになすりつけあうものなので、今回4人の演出家がなすりつけあうのを見たんですけれども、面白かったのは、目の見えない人達が心の目でものを見て動いているのがとても感動的だったので、皆さんぜひこの公演を見るべきだと思います。
最初私は彼らが目が見えないことに気づかなかった。「彼らは目が見えないんだよ」と教えられて初めて気づきました。例えば彼らが演じることによって目が見えるように見えたんだと思います。

NAASの女優:
私は俳優たちに聞きたいんですけど、誰のいうことを聞けばいいのか混乱しなかったんですか?

ジェイ:
混乱しました。世界というのはとっても混乱しているものなんですよ。

ロク:
結局彼らが誰の言うことを聞くかっていったら、誰かの言うことじゃなくて自分たちの持ってる自我の言うことを聞くしかなかったんだ、と。

大橋:
Only your opinion    
(会場の凹凸のラインを指して)これは、目の見えない人のためのものです。
集中しているから、だから混乱しているもの作れる。

NAASの女優:
あなたはすごく楽観的ですね。作品を楽観的に見てますね。
(ロクをさして)彼はとっても悲観的に見える。

大橋:
彼は稽古にいなーい。
えー、質問とかある人がいたら・・・時間がないのでひとつかふたつ。
鴻さんなにか

鴻:
Asia Meets Asiaをはじめて聞いたときに、日本のフェスティバルでこれだけすばらしい名前を考え出したグループはほかにないんじゃないかと思いました。
最初の頃は良く知らないんですけど、日本でアジアって言うとほとんどの人が東アジアしか思い浮かべない。数年前インドのグハさん呼びましたよね。で、そのときに東アジア=アジアという概念が壊され始めたと。で、その動きがますます力強いものになってって、で、今年はイラクの方とかイランの方とかやってきて、やっと現代のアジア演劇というものを考えるときに正常な形に近づいてきた、と。
それにより、いろんな世界に対する多様な対応の仕方をアーティストたちがしてる、ということを私たちは具体的に知ることができる。
それと同時に原初的混沌というものの可能性を我々に改めて知らせてくれるんじゃないかと。秩序がいいと思ってる人がいますけど、しかし可能性はDisorderの中に。そのDisorderというものは根源的に実は存在している。で、われわれはその根源的なラディカルな深いところにあるそうした力強いものを常に見出していていく必要があるんじゃないかと。
先ほどのコンフュージョン・フュージョンというのは、実は、Asia Meets Asiaの可能性の一端をあらわしていたのではないかと。
ということで、明日からのいろいろな公演を楽しみにしています。

大橋:
ほかにどなたか

しみずよしえ:
私は、俳優座のしみずよしえと申します。
初めて参加させていただいて、最初にお会いしたときは、ほとんどテレビに画面を通じていろんな民族の方を見ていたんですけど、今日、いろんな国の方々が現実に来て直接お話を聞くことができて、単純に言えば命はつながってるっていうこと、非常に大きなつながりを感じました。
今非常に時代というものがアンバランスになってきている、だから政治や経済じゃなくて文化によってヒューマニズムや新しいもの生み出す時代じゃないかと。
そういうアジアを基盤にして、そこから火種のような可能性が見えてきてとてもハッピーでした。
ほんとは一人一人にいろんなことをもっとお聞きしたいのですが、時間もないので。で        

も、この時を貴重として、大切にしたいな、と。
ロク:
あなたの劇団に私を演出家として雇ってみませんか?

しみず:
やがてその可能性も生まれるでしょう。夢を共有しましょうね。

ロク:
俳優座というのは有名な劇団ですけど、もし革命的な変化がほしかったら私たちのような演出家を雇ったらどうでしょうか

しみず:
私もそう思います。

大橋:
やはり、なぜこのような少ない予算でこれだけの人が集まったのかっていう答えを、意味を、それぞれが見出せる一週間になればハッピーです。答えが見つからなくても、宿題を持ち帰れるような一週間になればと思いますので。
私たちは、演劇の力を信じて未来へ進んでいきたいと思います。

ニール:
今回、Asia Meets Asiaにはいろんな国の人が参加してるし、一度皆さんでどうやってネットワークを作るべきかを話し合うべきだと思います。
国際交流基金のようにとってもお金を持ってるところもあるし、みんなでネットワークを作ったら、どうやってそこからお金をもらうかを考えればとっても力強く思うので、一度そういう機会を持ちませんか?

大橋:
明日から公演始まりますので、リハーサルも大変かと思いますが、一週間よろしくお願いします。
本日はどうもありがとうございました。
▲Top
Vol.3 Asia meets Asia2001 シンポジウム 11.21(水)
  Asia Meets Asia 実行委員会 
司会:大橋 宏/花崎 摂  スタッフ:龍昇

進行
 参加劇団の代表者が各劇団・グループ、メンバーの紹介。(5分目安) そこから今日の話題をみつけ、自由に発言してもらう。


マカンポンシアターグループ(バンコク/タイ)
メンバーの自己紹介。
代表Tuaさん/
 マカンポンは21年の歴史があります。教育・エイズの問題等、社会的なテーマを扱っていま す。現在おこなっている活動は3つあります。
1つめは、学生・主婦など誰でもよいのですが、芸術に興味のある人を集めてワークショップをおこなうことです。タイの国内をまわって、1つ1つのグループが楽しめるように、発展できるように、おこなっています。
2つめは、ワークショップで得た内容から、舞台をつくり、タイの国内をまわることです。 
3つめは、それを資料として残すことです。次の人にもつながっていきます。
また、(私達の)活動を別のいいかたでいえば、タイの地方での活動、タイ国の代表としての活動、国際的な活動と3つに分けることもできます。


シアターマンデリィ(ジャカルタ/インドネシア)
代表Putuさん/
 現在は自分の妻と息子を含んだ9人のメンバーから成り立っている。実際に舞台に 立つのは6人。
 大きな劇場でおこなうことが多かったが、プロト・シアターのような小さな劇場か ら新たなものが生まれると期待している。
 私達は劇団という決まった1つの組織ではない。劇団というより家族。俳優ではな いので、演劇を愛する者ならば、出入り自由である。もう30年続けている。
 私達には3つの原則がある。
1. 今、私達が現実に持っているもの、身体を使って何かをやること。     観客が1人でも1,000人でもやる。
2. 観客に精神的恐怖を与える。眠っている人を起こしたい。これが解答だと いうのは与えたくない。
だから私達の演ずるものは、美しくはなく、醜く、汚いものかもしれない。
  3. 人は戦争が嫌いだという。しかし、現実に各地で戦争がおこなわれている。
    本当は戦争が好きなのではないか。戦争は自由・正義のためで、コインの 表裏のようなものだというが、私は、そんなことを信じていない。

ボディ・フェイス・スタジオ(台北/台湾)
代表王さん/
 劇団や劇場はもっていません。
 今回の劇のタイトルは「黒洞」で、眼の見えない人達とつくりました。眼の見えない人達の話ではありません。眼の見えない人達の暗い世界を、台湾の人達の心の中の暗い世界として表現したかった。
 台湾の近代史において、50年間日本に植民地化されていたことは、大きな1つの悲しい記憶です。近年、台湾の政権と日本の保守的な勢力(個人を含め)との結びつ きが強くなってきています。台湾の人達にとり日本の植民地化は恩恵ではなかったかという歴史の読み替えがおこなわれてきているのです。例えば、日本軍のヘルメットは、安全 用としてどこにでも売られている。11月の選挙では、小林よしのりの
 発言が影響力を もった。日本の植民地時代がよかったという歴史の改ざんがおこなわれているのです。
 私は歴史を振り返って、みえない暗黒の部分を見たい、そして暗黒の部分に言いたいのです。
 2年前の台湾大地震の時、多くの人が亡くなったのに、もうすでに忘れられ、暗黒
 の中に埋まってしまった状態のようです。災害を受けた人達は恐怖を感じています。
 震災時に私が感じたことは、恐怖、それも日常生活の中の恐怖です。家庭内暴力や自殺等、全ての人が、心の中に暴力をもっている。恐怖が暴力を生む。個人の暗黒の中の暴力は、歴史の中の暴力です。作品の中で表現したいことは、1人の台湾人として、歴史の暗黒の中で生まれた、恐怖と暴力をえがきたいのです。


ジンジャントロプス・ボイセイ(東京/日本)
代表中島さん/
 劇団名はアフリカで発見された最古の人類の名からきています。
 パフォーマーが5人、スタッフを含め8人の構成です。内容的には、映像や装置等も使い、物語だけではない、トータルな表現を目指しています。
 他の国の方達の話をきいて感じたのは、皆さん社会的な問題にアプローチされてい
 るということでした。私達は、社会的な問題にアプローチするという姿勢で舞台を創ってはいません。この違いは何なのだろうと考えた時に、私自身を振り返ってみて、1985年に大学に入学した当時、何かに強くコミットするのではなく、適度な距離感をもって生きることが素敵だと思われていたことに1つの要因があるのではないかと感じます。
 今回の上演のテーマは「デンQ」です。渋谷のロフトでたくさんの電球がさがっているのをみて直感的に思いついたのですが。
 電球を、我々の幸福・あたたかさの象徴として捉えています。最初はポジティブな面ばかりを強調していましたが、9月11日の後では、光をみているとおのずとみえてくる 闇の部分や、光が象徴する「幸せ」と光が当たらない「死」の部分のコントラストを感 じてもらえればいいなと思っています。
                                              ▲Top

unit OM-2(東京/日本)
代表真壁さん/
 12〜13人のメンバーです。10年前から東京での活動より、海外の活動が多くなってきています。なぜ、東京で公演をうたなくなったのかといいますと、価値観が変化したということと、そうしなければやっていけなくなった、ということがあります。
 観客数が増えてきて、場所やスタッフ、経済的な面など考えると東京で舞台を創るのは、本当に大変ですから。
 最近の公演では、これまでよしとしてきたことが、世の中の価値観が変わってきて、古くなってきたのだろうか、それでも何か通用する手段はないだろうかと模索しています。
 ヨーロッパから帰ったばかりで、向こうで上演してきた作品をこの小さいスペース用に 新しく作り直したので、まだ通しはしていないのですが、最近ではずいぶん自由につく れるようなっているので、それを楽しんでいます。


DA.M(東京/日本)
代表大橋さん/
 時間があまりないので、手短に紹介したいと思います。
 今、東京はなんでもあります。情報もたくさんある、民主主義もあります。だけれ ども、一方で悲惨な出来事もたくさん起こっています。何でもあるけれども暗い部分もたくさんある。そことどういう風に向かい合っていくのか。暗い現実とどう付き合うのか。そういう中で、今、様々ないろんなテーマを選ぶことができます。しかし、選ぶ自由もあるけれども、何も選ばない自由もあるはずだ。テーマも物も、何も選択しない自由の中で、この現実とどう向き合えるか、向き合うべき現実は何
 か、その細い道を探しています。

(休憩)

参加者(日本)からの質問
 Q. 台湾の人々の「暗い歴史」とは、日本に植民地されていた時代のことですか?
 A. 王さん/
   植民地時代の歴史を批判しているのではなく、その歴史の中で生まれてきた、
   台湾の 人々のもっている心の暗い部分を批判したい。(その)2つを別々のも のとして、考えて欲しい。

シンポジウム
今日のテーマを何にするか。

花崎/
 海外の劇団は、社会問題に非常に言及し、コミットしていますが、対照的に、日本の劇団は社会問題に直接コミットしていません。
 そのコントラスト、それについて議論しますか?それは、見せかけだけですか。
(笑)

大橋/
 社会的問題を演劇の中にどう取り込むのか、非常に考えさせられる。
 社会的問題は演劇の中にどう取り込めるのか。
 社会的問題も1つの消費対象として流通し、物と同じように消費されてしまう。

王さん/
 美学として取り入れる方法があるのではないか。美学の現れとして、社会的問題がみえてくる。

大橋/
 それを望んでいるが、今の日本では、そういう方法でおこなうことを非常に難しく感じる。

王さん/
 美学の中に取り込む難しさには、賛成します。

西堂行人さん(劇評家)/
 美学と社会問題をわけて考えるということ自体、僕は賛成しません。
 身体には、色々な現実が埋め込まれている。俳優はそれ自体が社会的現実をもっているのではないか。それにおいては、日本においても、どの国においても、みんな同じだと思います。日本の場合、それが現れにくいのは、それ(社会問題)に対して、意識が薄いからで、特につくる側にそれがいえます。それから、そういうことを浮上させないような演劇・消費社会の仕組みが、日本では巧妙に仕掛けられてい
 るということです。

大橋/
 日本の中で、また文明そのものの中で、身体性 がどんどん失われてきている、その実感はあります。情報化社会にしろ、身体が介在していない。
 日本の近代化の中で、西洋の演劇をぼんといれてきた。(そのため)演劇界では、言語のみが流通しています。
 他のアジアの国々では、音楽・舞踊・演技がトータルに取り込まれています。
 日本ではその意識はどうなっているのだろうか。

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西堂行人さん(劇評家)/
 日本では、場があって、人があって、やる人がいれば、演劇が成立する、その直接性が失われてきている。(ex. 韓国の~)
 新国立劇場でおこなわれたプトゥさん演出の「棺桶がはいらない」は、極めて美学的に貫かれていました。

プトゥさん/
 昨年、新国立劇場でやったものは、クゥパコンという劇作家の作品を演出したものです。
 1人芝居。棺桶が大きすぎて、小さい穴の中に誰もいれることができない。家族が怒る。
 小さい死体をみつけてきた。それでようやくお葬式が始まった。追悼する政治家、「非常に親切な人だった」
 他の作家の作品をやるのははじめてで、難しかったところもあります。社会とのコンタクトそれなしでは、何も生まれてこない。社会とのコンタクトから生まれてくるものを劇にしています。劇を通して、その中に、インドネシアの社会的な問題を投入しています。言葉がなくて、非常に視覚的な舞台です。
 どうして、その2つのコントラストについて話しているのですか。私達が、それぞれ違うから、ここに集まっているわけで、そのコントラストが1つになる。

アミさん(台湾)/
 12年前の事故で、眼が見えなくなりました。眼の見えない者の演劇活動の現状を各国、ききたい。例えば、全く眼の見えない者のみの劇団はありますか。今回、劇団の中の4人が眼が見えない。(台湾では)眼の見えない者の職業がマッサージに限られ、その他の才能が埋められている状況。その閉鎖的な状況が、いつまで続くか。
 政府からあんまという仕事を与えられているが、そのシステムは幸福だろうか。
 (注 : 台湾では、眼の見える者が、マッサージの職業につくことはできない。
    眼の見えない者=あんまという社会的な認識がある)
 (私は)5年前、眼のみえない者の集団で劇団をつくりました。

各国の応答
タイ/
 音楽をやるか、歌を歌うかが多いですね。(劇団では)眼の見える人と見えない人両方いて、眼の見えない人のみで構成されている劇団は知る限りないですね。

インドネシア/
 (最近)眼の見えない人達のみで劇団がつくられ、国内を5箇所ほどまわって、反響があり、好評を得ていました。が一般的には、タイと同じような状況です。

日本/
 身体障害者の人達の集団で、「変態」がありますね。眼の見えない人達のみのは、きいたことがありません。ダンスでは、勅使河原三郎さんと一緒に、イギリスの眼の見えないダンサーがたっていましたが。俳優座で、眼の見えない人主演の舞台を
 みたこともあります。

フィリピン/
 眼の見えない人達のみの劇団は知りません。音楽家としてはいます。

花崎/
 時間もせまってきましたので、来ている方達、様々な立場の方達がいらっしゃいま
 すので、皆さんに発言していただければと思います。           ▲Top


堀さん(美術家)/
 私は美術家なんですが、80年代に入って、アジアの美術家達がたくさん紹介されるようになりました。(ex. タイのモーティンムンバー)
 その頃、日本の美術評論家は、アジアの美術に比べて、日本の美術はお花畑に思える、という発言をしていた。それは柵に囲まれた中で内部化してしまったということです。先程の話とつながるのですが、身体もしかりで内部化されてしまったのではないか。
 80年代のアジアの美術は、自分の内部が外へ流れ出しているという印象がありました。自分が傷つくのと引き替えに。ある意味、自分の自我が流れ出ることによって、つまり内部が傷つくことによって、外部がはいってくる。日本は美術は美術の中、演劇は演劇の中で、閉ざし、内部化していました。一見、政治的なものもありましたが、内部化された中で、いくら政治的なメッセージをしゃべっても、所詮、どこにも誰にも届かない。
 90年代に入ると、中国のコンテンポラリーアートが世界に溢れ出てきました。(その中で)アジアの美術が非常におとなしくみえてきた。80年代は、内部から溢れ出てくるものがすごく元気にみえたが、その元気さは、一種の表現のたれ流しだったかもしれない。規範のなさは、構造のなさだったかもしれない。中国の美術は、とても強い構造をもっていましたから。その帝国主義のようなものと、闘いたい気持ちはあるが、その一方で、その強さを考えていく必要があると思う。

花崎/
 では最後に、各国で演劇をやっている人が最も関心をもっていることと、各劇団、今演劇をやる上で最も関心をもっていることについて話していただきたいと思いま
 す。

タイ/
 演劇に興味のない人達をどう、とりこんでいくか、関心があります。

インドネシア/
 今は演劇事情はよくない。70、80年代は、昇り調子だったが、90年代に入って、悪くなってきた。カフェや映画館などにお客をとられています。
 シアターは芸術表現の場所にしたい。状況は悪いけれども、私達のように、演劇を愛していて、やっていきたいクレイジーな人達もいます。

台湾/
 若い人達は、ロマンチズムを失っている。何もないものを表現している。(セック
 スを含めて)
 今、私がやっているのは、中国と台湾の間で失われたアイデンティティを捜すことです。

日本(和田さん)/
 演劇を求めている人は多い。「こんな風にしゃべってもよい、こんな身体と出合えた」
 いつもタブーというものが社会の中にあって、(しかしそれが)社会の中に必要 (でもある)だから、人々は劇場に来てくれる。
 演劇は、いつも直接、人間と出会える場だと確信しています。   
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●Vol.3. Asia meets Asia 2001
中村和夫
 

AAsia meets Asia 2001 毎日「3本上演+交流会」というスケジュールで、 演じ、見て、語り明かす。アジアの表現者たちと 観客が直接的なコミニケーションを体験した5日間。 今年3回目を迎えたAsIa Meets Asia。4ヶ国6劇団のメンバーと客がお互いの問題意識を交換、貴重な収穫を残した。11月21日〜25日 at プロト・シアター(高田馬場) 写真上左/unit OM-2(東京)、上右/シアターマンディリ(ジャカルタ)、下左/ジンジャントロプス・ボイセイ(東京)、下中/ボデイ・フェイス・スタジオ(台北)、下/マカンボン・シアターグループ(バンコク)  Asia Meets Asia 2001 は11月21日から25日まで高田馬場プロトシアターで開催された。1997年、1998年に引き続き第3回目となる。シンポジウム、ワークショップ各1日、上演3日間(1日3劇団)のタイトな日程だったが、上演演目はそれぞれに興味深く、また連日多数の観客が来場して盛況のうちに終了した。 参加した劇団は日本が3つ、それに台湾、タイ、インドネシアからの3つを加えて計6団体である。フェスティバル全体の総括は主催者側にお任せするとして、ここでは上演された作品について述べてみたい。まず日本の劇団から。  ジンジャントロプスボイセイ『デンQ』:訳の分からない劇団名だが、アフリカで発見された原人にちなんだものらしい。冒頭「私は...になりたかった」「私は...したかった」と書かれたパネルが登場。コンセプチュアルな芝居になるのかなと思ったが、電球を使ったコミカルなパフォーマンスへと移っていった。ラストで沢山の電球が舞台一面に次々と置かれ灯される。明るくもあり脆くもある電球、そのような存在に対する肯定的な眼差しが感じられた。  OM−2『いつか死んでゆくものであろうすべてのものたちへ』:ヨーロッパから帰ってきたばかりだそうで、向こうで上演して来た作品をベースに作り直したものという。まず近くの公園にて、暮れなずむ空を背景にして机叩きの野外パフォーマンス。このシーンは前にも観たことがあるが、周囲の日常世界と接した中で演じられると、また違った見え方がする。そして劇場に戻って今度は密室の演技。凝縮土の高い演技で、役者がすっと立っただけで何事かと思わせるものがある。全体として近年のOM−2の作品系列に属するものであったが、いつも効果的に使っているビデオやスライドは今回は無かった。  DA・M『トマトをたべるのをやめたときU』:前作『同T』に続く即興的作りの作品。わずかのブレイクが入るほかは、動きっぱなし、走りっぱなしで大変だ。役者は今この場で次の瞬間へと、自らの想像力で動きを掴みとっていく。それが協同作業として成立していく中で、動きの渾沌がある種の静謐さへと相貌を変えていく。いわゆるドラマツルギーがもたらすカタルシスとは全く別の可能性を感じた。  次に外来のグループに移る。  ボディフェイス・スタジオ『黒洞』(台湾):これにはちょっと意表を突かれた。俳優は目の見えない人や片足の無い人なのだ。かなり暗めの舞台で、写真、言葉、夢、記憶、役者の身体が交錯する様々のシーンは、一種不気味な色合いを帯びたイメージを浮かびあがらせる。障害のある人たちの持つ内的パワーを活かしたいという演出家の発想は、実にラディカルだ。  マカンポン・シアターグループ『CHAO LAR returns』(タイ):北部タイの民話をベースにして、青少年の麻薬乱用という社会問題を取り込んでいる。役者が楽器も使い舞踊劇のスタイルに仕立てたウェルメイドな作品。スラム街や少年院で数年来上演されてきており、レパートリーとしてすっかり定着している感がある。後で聞いた話だが、本国ではもっと直接的に観客とのコミュニケーションを取りながら上演されているそうだ。  シアター・マンディリ『War』(インドネシア):「戦争は平和のための手段だと言われるが、そうではない。戦争は戦争だ。」という強烈な主張に貫かれている。と言ってもアジテーション劇ではなく、台詞はほとんど無し。舞台全面に幕を張り、インドネシア伝統のワヤン・クリに想を得た影絵の手法で見せる一大スペクタクル。既成の価値観を疑い、観る者を慄かせるというコンセプトはストレートに伝わってくる。  以上、全体を見渡してすぐ気が付くことは、外来の劇団は直接社会的政治的題材を扱うことが多いが、日本の劇団はむしろそれらに無関心であるということ。これは上演前のシンポジウムの時に既に話題になっていた。これはやはり社会状況の違いが大きい。日本の作り手/受け手共に問題意識が低いというのは事実かもしれないが、日本ではそれだけ巧妙に管理が進んでいるということなのだ。作り手が直接的表現を取らないからと言って無関心であるとは限らない。もっとしたたかな表現を模索しているのだと思いたい。  最後に特筆したいのは、毎晩上演後の交流会が作り手から直接話が聞ける場を提供し、非常に実りあるものになったこと。これは予想以上であった。

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●Vol.2 Asia meets Asia '98
Yさんへの手紙 堀浩哉(美術家)『LR』11号
 

三日前に抜いた奥歯の摘みはもう少なくなったものの、その、失くなった空隙の大きさに、舌の先に触れるたびに、軽い驚きがあります。もう十年来、奥歯を噛みsめすぎるためにすべての根がダメになっていて、治療不能だといわれい一本抜き二抜き、今回が三水目。抜く前にはただ痛いだけのちっほけな存在だったのに、失くなってみれぱなんと大きな空隙なのか、とたじろいでしまう。でも、そんな感慨を野放しにしておけぱ、結局はうつうつとしてくるのがわかり切っているので、昨日(十一月二十一日)はまだ痛みを抱えながら、思い切って芝居を観に行ってきました。それもYざん、一日に連続四本というハードな観劇。
 『Asia meets Asia'98』という、日木の四劇団とアジアからの四劇団がお互一いの舞台を介して交流するどいう催しの、ほくが観たのはその内の半分、高田馬場のプロト・シアターで行われた日本の劇団と香港とインドの劇団の公演でした。
 午後二特から十時まで、舞台転換のための休憩時間があるとはいえ、ミニ・シアターのペンチに長時間身をかかめているのば、正直苦痛でばあり、半ばころにはここへ来てしまった自分を呪っていたほどでした。ところがYさん、その苦痛の中から、最後には感動といってもいいほどの、うれしさがこみ上げてきたのです。ぽくは別段マゾヒスト
というわけではないので(たぶん)。Yさん、そのうれしさにはもちろん理由があります。
 そもそもこの公演に出かけたのは、旧知の没者・報昇が催し全体の実行委員長を務め ていて案内をくれたからであり、小劇場を中心に活動しでいる龍(彼は昔、ぼくの書いた芝居にも出演していました)が実行委員長をするくらいだから、〈偉い入たちが権威に基づいてメジャーな劇団を招聘する)というのとは別の角度からのプロジェクトであろうことは、くわしい情報ほ知らなくてもわかっていたことでした。だからこそ、国際様式によって過剰にさらされすぎ(たとえば山海塾のように)てはいない同特代のアジアの演劇を観ることができるのでばないか、そしで、それが今では東京で数多く見ることのできるアジアの美術と、その国の同時代のアートとしでどう対応しているのか
それを観たいという思いがあって出かけたのでした。
 むろんYさん、香港とインドのたった二つの演劇を観ただけで、そんなことを今ここで論じようとは思わないし、たとえばつい先ごろ見た「インド現代美術展/神語を紡ぐ
作家たち」(国際交流フオーラム)と今回のインドのオルタナティヴ・リビングシア
ターの舞台を並ぺてみたとしでも、ごくつきなみな言葉(双方に共適する反偶像的崇拝的な脱神話としての神話性ーーなどと)しか出てこないし、そんなぶうに解釈することは僕の任ではありません。
 ぼくが今ここで書きたいと思っているのは、Yざん、あの場には、〈ぽくは演劇を必要としている>、という感覚を呼び醒まさせてくれる何かがあったということでありそしてその何かとは何だったのか、ということなのです。それはまた、Yさん、〈ぽくは美術を必要としでいる>、と感じるときの感覚と共通する何かなのです。
 *
 ー九八○年代の半ばから十年ほどの間、ぽくは〈客席離れ>をしていました。
 そのころから急激に増え出した、舞台と客席との間に距離感のない演劇にうんざりとレて嫌気がさしたのが原困でした。そういうものをたくさん観てしまって、というのではなく、そういうものの出現と同時に、それまでシンパシーを持って観ていた劇団までもが、そういう風に煽られるように客席に媚はじめたと感じられ、それに嫌気がさしたのです・
 表現する側のひとりよがりと客席への媚びとが表裏一体となって、容もまたその媚びに対して媚びながら薄ら寒い笑いを浮かべる。甘え切った共犯関係で劇場全体がベタつき閉ざされ、他者不在の密室空間になってしまうという、そんな「おもしろ演劇」の蔓延にう
んざりとしていたのです。それば、日本の現代美衛の状況を、建畠哲さんが「お花畑」と報んだのと、等しく同じ状況だったのかもしれません(今もあまり変わりませんが)・ ところがYさん、この日観た四本はどれも(たまたまだったのかどうか)そんな「おもしろ演劇」とは対極にあるような、客への媚びもサービスも、エンターテイメント性も、かけらもないものばかりだったのです(だからYさん、本当は途中で何度か眠ってしまいましたが)
 *
 最初の演日、香港の撞Clashによる『五十年轟症』は一種のアジテーション演劇でし。五十年間何も変わらなかつた開塞した社会の中で、しかしその社会の部品は
すぺてば取り替え可能であり、取り替えられていくもの、それは「It's you」と観客を挑発しつづける。被らは香港の社会運動の中から出できた集団のようで、もちろんここにはそうした現実の中からの直接的なメソセーシが込められているわけですが、メッセージをアジテーションするだけであれぱ、それは構遣的にば客イジリのお笑いとも共通する。それこそ舞台と容席が相互に媚びていく空間であることに変わりはない。
 だから最初はぽくも少しうんざりしていたのです。しかしYざん、しだいにそれだけではないものが伝わってくる。パフオーマーたちは繭の中の虫であり、そこからよう
やぐ抜け出し解放され、やがて死んでゆく、そうした自分自身が取り替えられていくも
のでる苦痛の身体表現を伴いながら、その一瞬の生きる証としてメッセーツを発していて、その身体性こそがストレートに容席に届いてくる。それによってギリギリ、媚びやもたれ合いをスリ抜けた、開かれた問いとしてメッセージが伝わり、それがぼくにある種の開放感をもたらせてくれたのです。
。次は日本の商品劇場による「マデユパイ小学校奪取」。フランスのポスト・モダンフェミニズムの理輪家、エレーヌ・シクスーがインドの女盗賊プーランを主人公にして描いた戯曲の上演なのですが、これにはばくはかなりの疑間を持ってしまいました。
 シクスーの戯曲はたしかに興味深い。しかし、戯曲を読み解かれるべきテキストとしてではなく、戯曲という上部構造にしてしまっていて、読み解く演出とそれを身体化する演技が欠落して、舞合が舞台の中で閉ざされてしまっている。ひよっとしたら、ぽくにば気づかなかった何か新しいものがあるのかもしれない。という留保はつけますが(何しろ最近はあまり観ていないのですから)、これでば劇場が閉ざされる前に舞台が閉ざされるという、古い新劇的構造とどこが違うのか、ばくにはわかりませんでしだ。
 そしで次に.インドの西ペンガルから来たオルタナティヴ・リビング・シアターの『第三戦争』です。舞台の片隣に、歌い、語り、楽器を奏でる語り部がひとれ。それに合わせてパフォーマーたちが様々な伝統的儀式を演じていく。収穫祭、そして緒婚式。
それは古い困習に縛られた娘の、売り渡しの儀式でもある。そこへ顔のない男がやってくる。顔なし男はやがて、祭りの食べ物を食べつくし、ついには男たちを殺しつくして
去っていく。ひとり残された娘は解敬されたのか?「搾取がこの世から消え去るまでに、いったいどれほどの時代を超えていかなければならないの?」
 祝祭劇のようなこの舞台と、ほとんど同じような構造の舞台を、ぽくはかってローマで観たことがありました。そればインドのダンス・カンパニーの公演で、このニつはほとんど同じように進行していく。しかしYさん、ひとつだけ際立った違いがありました。
ぞれぱ、ダンスの持つ身体の求心住と、演劇の侍つ身体の逮心性の違いでした。
 天才的なダンサーが、身体の求心性を突き抜けて身体の解放にまて違する場合を別にすれば、今日のダンス・カンパニーの舞台でば往々にしてその求心的な決めの型だけが連続して見え、いくら動きがあっても躍動感が簿く、あるいは静止しても型にはまりすぎ、額縁の中に収まったスチール写真のように見えてしまうことがある。ローマで観たのはそういうたいくつなものでした。それに対してYざん、このオルタナティブ・リビング・シアターの舞台は、猥雑といっていいほどの逮心的なカに満ちていて、容席に対するくすぐりも笑いも一切なしに、しかしある浮き浮きとした浮遊感が、波動のように伝わっでくるのです(ダンス系のパフオーマンスが求心的、演劇系のパフォーマンスが遠心的だとすれば、美術系のパフオーマンスは様式的だ、と、とりあえすは言えるかもしれません) そんな遠心的な力をさらに感じさせてくれたのが、最後の日本のDA・Mによる『真っ昼間の地平線』でした。これはおもしろかった。二重の意味でおもしろかった。
ひとつにはもちろん、純粋に舞台としておもしろかった。そしてもうひとつはYさん、きわめて個人的なことですが、ぼく自身がかってやりたいと思いながら果たせなかったこと
が、ここにあった、という感慨を含めたおもしろさでした。
 ここには物語もテーマもメッセージもない。すべては断片化され、一切の求心性を排除して、しかしそれが重なり、途切れながら、重層化され、舞台としての事実を作っていく。パフォーマーは歩行のリズムをくり返し(しかし遠心的なバラけ方で)、つまづき、止まり、また歩き・・・。そして床に散らばった意味のつながりのない断片としてのテキストを読み、それがいくつにも重なったりする。音楽は電気的に処理され、ときに美しくときにノイズと化し、これも断片化する。さらに舞台の上でドローイングを描くものまでいるが、むろんそれも完結はしない。それらのすべてが白々とした蛍光灯の点滅する光の下で進行し(まさに白昼夢のように)、断ち切られたカケラ同士が融発しあい、また観客という他者に突き刺さることでハネ返り、それがさらに次の動きのきっかけでもあり、増幅装置でもあるようにしてパフォーマーに伝導し、動きが加速し舞台がさらに重層化していく。そうした、観客との真剣勝負のような緊張関係の中から、直接的なメッセージ性や安直な物語や神話の引用などによる了解をはるかに越えた、劇場自体が今ここで発生しているという誕生の瞬間のように、カオスとしてのエネルギーの原型のようなものが(抑制された原理的要素の繰り返しだけでありながら)鮮やかに開かれて見えたのです。
 それはみごとなものでした。表現する側にも観客にも、どちらにも閉ざすことのない、開かれた劇場の出現を見た思いがしました。遠心的な力、というよりはYさん、ここではむしろ求心性と様式性の欠落こそが、ひとつの行為が別の行為を呼び込み、ひとつの身体が別の身体を開いていく大いなる契機となり、その欠落こそが際立つ力となっていたのです。(遠心的な演劇系パフォーマンスが、その求心性と様式性の欠落においてこそ際立つとすれば、様式的な美術系のパフォーマンスは求心性と遠心性の欠落、つまりはその宙吊り性において際立つ、と言えるかもしれません。それに対してダンス系のパフォーマンスは、すべてを包括しながら、欠落ではなく、やはり突出する求心性において際立つという気がします)。
 もちろん、危惧はあります。プロト・シアターというミニ・シアターは、彼ら自身が運営する拠点なのですから、ぼくはいわば、アトリエの中で描かれつつある絵画を見ていたのだ、とも言えます。これが、どこまで外部へ突出する力を持つことができるか。そのときには、求心性と様式性の欠落が、改めて問われることになるかもしれません。それは、山海塾の求心性による突出や、ダム・タイプの様式性による突出が抱えている危機(と、ぼくには見えます)と、表裏の問題なのでしょう。
 そして、もうひとつの、ぼくの個人的な感慨についても、Yさん、付け加えておきます
(以下 略)

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●Vol.1 Asia meets Asia '97
Asia meets Asia’97体験記  「京畿日報」1997.11.25.掲載
アジアが<アジア>と出会うために 西堂行人(演劇評論家)
 

東京・高田馬場のプロト・シアターで10月24日から3日間にわたって開催された「Asia meets Asia’97」は、日本、韓国、香港の3つの劇団が集まり、互いの舞台を上演することを通じて、同じアジア人として何が出来るかを考えようとする好企画だった。
現在、様々なレベルで文化の国際交流が行われている。この9月だけとってみても、国際交流基金の肝煎りでアジアによる『リア』がシンガポールのオン・ケン・セン演出で上演され(脚本は日本人の岸田理生)、またITIの国際的なプロジェクトとして、やはりシェイクスピアの『リア王』が上演されたばかりだ(演出は金ト玉)。こうした大がかりなプロジェクトが進むなかで、今回の企画はほんとうに小さな、手づくりのものだったが、わたしには、真の「交流」とは何か、いったい我々は何をどのように交換しあうことが必要なのかを自らに問おうとするこの企画がいちばん実質を持ったものではないかと思われた。
">  ここで三つのグループとは、DA・M(日本)、劇団「城」(韓国)、「嘯聚街頭と易」(香港)である。わたしは25日に参加し、三つの舞台を続けて見た。それぞれのグループには独自のカラーがあり、わたしは三者三様の風にこの小劇場で触れることができたのである。
 香港の『健忘症は誰だ?』は、舞台の上につぎつぎと文字を書き付ける老人の話だ。彼は香港では実在の人物らしく、空き地を見つけては、せっせと落書きにはげむ。その彼の航跡はついに「パブリックアート」と評価されるほどで、わたしはそこに香港での新しい街頭パフォーマンスのスタイルを見る思いがした。彼らは、確実に香港の街頭の空気を小劇場のなかに持ちこんできたのだ。

 DA・Mの『Walking』は、四人の男女が舞台を延々と歩きまくるパフォーマンスだ。彼らは舞台上を平行して歩いて決して交わらず、時に他人との間合いを計り、時にはそのずれを組織する。一方、舞台下手にはダンサーが新聞を読み耽り、上手では生演奏のミユージシャンが四入の歩行者に昔で交錯する。ごこで主役は空間であり、そこに流れる時間だ。時間は収縮し、拡大し、観客はその空間に想像刀を流しこむ。まさに一回かぎりの時間と空間のたわみをわれわれは体験し、呼吸するのである。

 最後の『開中緑』は、なかでも大作だった。舞台の素材は李氏朝鮮時代にとられ、父が子供を殺す悲劇を扱ったものである。政争に巻き込まれた一家は結局、子供を殺し、なんとか家の存続を堅持する。が、その悲劇は母の目から見ればいっそう酷薄なものと映らざるをえない。字幕がないため必ずしもストーリーは分かり易くなかったが、多彩な演出で物諦を展開していく手法は、見る者を飽きさせない。とくに芝居の後半で、俳優たちが民族的な踊りを駆使するシーンは圧巻だった。彼らの身体が激しく円を描いて立ち回ると、実際、劇場のなかに風が舞い起こるのだ。強い身体、歴史を素材にとった頑丈な劇構造、女性の視点から悲劇を見つめる批評性・・・・・・若い俳優たらの動物的なエネルギーと老練な俳優たちの抑制された演技かうまく絡まり合い、舞台は疾走感とともにその情勤が激しくうねった。

彼らの木拠である水原は、ソウルから60キロほど離れた歴央の古い街である。ここで1983年よりすでに十数年、金聖悦と劇団「城」は中火から距離をとりつつ、独自の地域性に根ざした演劇を探り続けてきた。その精髄は、もしかしたら彼らの支化的伝統であるシヤーマニズムにあるかもしれないし、踊りに基本を置く演劇舞踊(ダンスシアター)の結合体かもしれない。現代を描くとき、彼らは自国の歴史を検証し自らの足元を見定めようとする。,その姿勢はこの上もなく正統だ。彼らが推進している「国隆演劇察」も96年に始まり、白然と城の景観を利用したユ二一クなものだが、「演劇祭」を通じて彼らは韓国の他の地方都市のみならず、諸外国との交流も手がけてきた。それも自分たちとは何かを見つめるためである。
 だがここで見落としてならないのは、こうした催しが個人の力でなされているごとだ。つまり国家や民族といったレベルでなく、まつたくの丸腰の個人がネットワ一クを形成し、
人的結合を最大限に利用しで自国の閉鎖性を打ち破ろうとしているのである。人と人が出会うためには、無駄な衣裳は要らない。ただ表現の現場を共有し、互いに批判=批評しうる音葉を見つければいい。そこから個人と個人が何をしたいか、できるかを探ってみる。対話はそこからしか始まらない,その先に初めて、国際的なコヲボレーションが生まれてくるのだ。その姿勢は、「Asia meets Asia’97Jという企画のなかでも見事に貫徹していた。
 わたしは文化が生まれてくるときの力強い現場性と、その現場が国際的な交流によってもっと大きな力に変換し共有されていくことに、いささか興奮せざるをえなかった。しかもそうしたことが、肩の力を抜き、実にあっけらかんとした平常心でとり行なわれていることに二度驚かされたのである。


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